理窓 2017年1月号
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17・1 理窓35の者も現場に出た。20年3月、4年生は1年短縮し、5年生と一緒に卒業することになったが、家庭事情のある者、進学する者を除いて続けて勤務するよう要請された。私は未だ決まっていない学校名を挙げて家に帰った。しかし戦争中で遊んでいる若者は居らず小学校の代用教員をやらされ、戦後GHQの日本教育制度の「管理政策に関する指令」が出され、日本の教育改革が始まった10月過ぎまで働いた。私は父親が電気関係の仕事をしていたので子供の頃から機械、電気に興味があったのでその方面の専門学校に行きたいと考えていた。4 東京物理学校時代4 東京物理学校時代 家から通える、授業料が安いことと、1年先輩の勧誘もあって受験した。不勉強だった英語は解釈だけでなんとか入学できた。戦後のことで陸士海兵等軍隊帰りの人が多かった。応物に入った者は120名だったと思う。入るは易く出るには難しい、世間から「あの学校の生徒は2年にならねば本物でない」と言われているのは知っていたが4月の初めての数学の授業で2階の大教室が受講生で一杯だったのには驚いた。200名は超えていただろう。学校周辺は20年3月・5月の空襲で焼け野原、校舎は教職員生徒に守られて4階の講堂の天井の一部が焼夷弾で焦がされた程度だったというが入学時は片付いていた。食料は無し、下宿屋もなく、家から通う外なく3年間大月から通った。この頃から遠距離通勤、通学が始まった。三島からの生徒もいた。早朝5時の列車に乗り今の高尾駅で電車に乗り換え、立川を過ぎる頃から超満員、定員の3倍くらい詰め込まれた。ある時カーブで電車のドアが外れ、5~6人放り出された事故があった。精力を消耗して8時15分過ぎ頃教室に辿り着くともう授業が始まっている。ドイツ語青木先生、鉄鋼が専門の黒田正夫先生、どの先生も物理学校を愛して熱心に指導賜った。黒田先生は遅刻者人数を時系列で板書しながら、諸君は理数系は大学生に負けないが英語が駄目だと何度も叱咤激励された。余談は山の話で山男を喜ばせた。帰りは新宿発の列車に乗って2時間余りかかり、勉強に充てた。実験等で遅くなると帰宅は10時過ぎになるので寝るだけ、列車内が勉強の場であったし、集中できた。校章は「物は牛を以って代表す」という字の源から「牛」の象形文字で「物」の字を表し、これに理の字を配して物理を象徴したもので、牛の形が竪琴に似ていたので車内で音楽学校生かとアメリカ兵に間違えられたことがあった。紙類も払底していた時期で教科書は教授自作の謄写印刷もあったが物理学校で編纂した教科書の在庫があって幸いだった。物理学通論、近世化学通論、微積分などである。古本でも容易に見当たらない芝亀吉先生の熱学は借りて写させてもらった。今のコピー機など夢のようだ。教授陣は物理学校を卒業して大学で勉強をされた方々をはじめ他大学からの講師によって構成されて皆様個性豊かで心に残る指導をされた。以下敬称を略させていただいて、微積の関武次郎、教壇上を跳ねる様に行ったり来たり名調子、「解析幾何」の渡辺孫一郎、この先生は自著を用いて一言半句違わず講義、ただ驚く。応物生みの親真島正市、同窓会を「盛り立てよ」と力説したのが研野作一、温厚な力学の遠藤寿美、「難し屋」の谷安正、親しくお付き合い願った松尾吉知、他にお名前だけで失礼すると、福田節夫、星合正治、朝賀鉄一、平野幸太郎、平川淳康、等の諸先生方にお世話になった。卒業後、教職に従事してこの経験が役立った。物理学校で誇れるものは実験に重点を置いていたことではないだろうか。応用物理科では吉田卯三郎の物理実験書に従って全項目が実験できた。戦災を免れて計器類が全部そろっていたからで、火災から守ってくれた教職員同窓生に感謝する。過日長万部を訪ね、実験室を見学したがすべての実験器具がディジタル化セット化されて演者が手を加えることがない。科学技術が急進する今日、止むを得ないと思うが測定とは何か考えさせられた。3年次に豊島園で運動会をやっただけでアルバイト、勉強等我ながらよく努力したと思う。生徒指導の難しい時代に38年間教職を続けられたのも物理学校で培った「不屈の魂」に因るものと思う。いや私の人生のすべてである。

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