理窓 2017年1月号
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34されることになり、我々4年生、5年生は横須賀軍港近くにあった海軍航空技術廠支廠に決まった。砲弾、魚雷、爆弾、火砲等を造る工場である。雨は降っていなかったが、梅雨時の蒸し暑い日、団体列車に乗せられ出発、生まれて初めて親元を離れる切ない思いを味わった。満員電車を乗り継ぎ、送られた先には、新しい工員用の宿舎が用意されていて海軍技術将校を舎監とし我々の監督保護には技術将校候補の大学生が当たり、教員は常駐せずに、すべて海軍式に拘束され、自由は奪われた。宛ら武器を持たない軍隊である。出発前に校長は雇用期間は半年、午前中は工場内で勉強、午後は仕事をすると約束したが戦争の激化とともに1か月もせず反故にされた。我々の正式な勉強は2年間だけで3年生になると教員は殆ど召集され授業は成り立たず、英語は無視され、勤労奉仕に駆り立てられた。工場は宿舎から4㎞くらい離れた所にあり沖縄特攻機(桜花)の弾頭(火薬を装填する部分)、戦艦大和の主砲の砲弾製造、附随する鋼の鍛造を主にし、工場内部には3千トン、1万トンの水、油圧のプレスが唸り、鍛造部の高温と黒い煙に満たされ危険と隣り合わせで気が抜けなかった。生徒は2~3名ずつ各部署に配置され、工員と同様に扱われた。そのため工員、上司と夫々に軋轢が生じた。私は製鋼部全般の工程管理を任され工場全体を観察し、製造過程全体を知ることができたので大変勉強になった。10月に入ると主兵器の生産が落ち始め、自爆兵器を造りだし、事務系東京物理学校東京物理学校のの思思いい出出⑬⑬1 はじめに1 はじめに 東京物理学校の思い出を書くように依頼されたが、卒業してもう70年も前のことで記憶も怪しくなり、世相もすっかり変わってしまい、現代の人には理解し難いことばかりだと思われるが、昭和の初めから動乱の時代を生きた人間の一人生としてご覧いただきたい。2 小・中学校時代2 小・中学校時代 私は生まれて青年期まで山梨県の大月市に育った。四方山に囲まれて外部との繋がりは甲州街道と相模川上流の桂川だけのド田舎である。小学校に入学してすぐに日中戦争が始まり戦時体制に入った。小学校は国民学校と改称し皇国史観が支配的となった。小学校課程は6年で終了、大半の者は社会に出て行ったが経済的に余裕のある者は小学校高等科又は中・女学校へ進んだ。さらに上級学校に、専門学校、大学に進学するための大学予科、高等学校があり、東京物理学校は理系の専門学校として名声を馳せた。昭和16年中学へ入学した年、太平洋戦争に突入、戦線の拡大と共に物資は欠乏し、生活は苦しくなり、食料品は配給制、衣料品は切符制になりその他あらゆる面で国家統制が強まっていった。昭和13年、文部省は、中学校以上の学生、生徒は年間3日ないし5日、休業時の勤労奉仕を行うよう要請した。戦争の激化によって18年から強化され、19年、20年になると、殆どの学校は授業を休み、農村や工場へ出て働く通年動員となった。記録によれば、終戦までの学徒勤労動員数は延べ300万人、死者1万1千人、負傷者は1万人となっている。3 動員令下る3 動員令下る 4年生になった19年6月山梨県の中学生も動員山本山本  弘二弘二(昭24応物卒)(昭24応物卒)

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