理窓 2016年10月号
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16・10 理窓39に数学部に入学し、その数は凡そ200名ほどと記憶しています。卒業は約70名前後だったように覚えています。他に不明者が30名ほどでした。 私が再上京したのは昭和21年の暮れ近くでした。先ず寝る所に食う所を確保しなければならない。そこで思案の結果見付けたのは青果市場でした。当時、両国駅の北東部(現江戸東京博物館のあたり)にあった墨田青果卸売市場でした。ここの市場長に突然ながら面会を申し込み、苦学生を助けて下さいと切々と思いの丈をお話したところ、幸いその方も夜間の専門部で苦学したことを語り、漸く私の願いを聞き入れてくださった。このように着々と生活を安定させながら市場の仕事にも馴れ、翌春にはあこがれの東京物理学校に入学することになりました。 1年ほど経った頃、学友たちの雑談の中から耳寄りな情報が得られました。「昨年発足した新制度の中学校の先生が足りなくて、どこの区でも探しているそうだよ」ということでした。おまけに「時間講師の先生は案外自由な時間があって自分の時間がとれるという話だ」と。昭和23年が明けたころから打診を始めました。その結果、昭和23年4月15日付の辞令交付につながりました。某区立某中学校助教諭(数学科・理科)というものでした。当時は戦後の混乱期だったため、現場の校長の権限で人事を処理しなければ公教育行政が整わない時代だったのです。連合国軍の占領下にあった教育行政の一つの姿だったわけです。このようにして、曲がりなりにも私の教職人生が始まったのです。爾来34年間多くの同僚に支えられ、教え子たちに恵まれて、中学校長の任を果たし終えることができました。3 思い出多い先生方3 思い出多い先生方(1)東京物理学校内数学教育研究会を立ち上げた先生方について触れたいと思います。そのメンバーを五十音順(敬称略)に列記すると次のようになります。 薄井政次郎、海野次郎、小林正、反野次郎、 中谷太郎、平川淳康、水内金太郎 当時(昭和14年この年の5~9月ノモンハン事件があった)、東京物理学校同窓会東京支部主催の講演会(毎月1回の日曜日午前中)が開催されるのが通例でした。そしてある日の例会後、上記のメンバーが話し合い、旧制中学校の数学教育について問題点を語り合うことになりました。その結果、同窓会の有志に呼び掛けて東京支部主催の講演会のあった午後、数学教育研究会開催の件を話し合い、とりあえず会名を東京物理学校内数学教育研究会として有志結合を図ることとしました(中学校数学教育史・上巻 日本数学教育学会出版部編著 新数社 昭62刊参照)。これが後の東京理科大学数学教育研究会(略称 理数研)発足の端緒となったのです。 そして敗戦後からの理数研へと発展に大きく寄与された先生方に、次の方を思い出します。 平川淳康、中谷太郎、薄井政次郎、平野幸太郎、黒田孝郎、佐藤忠、清水辰二郎、矢島起与(敬称略・順不同)でした。また、初代会長に平川淳康、第2代に平野幸太郎、第3代に松尾吉知、第4代に植竹恒男などの先生も私の記憶に深く刻まれております。(2)岩水昶先生に思う 物理学校時代の中でも特に思い出に残っている先生を挙げるならば、岩水昶先生でした。学友間でよく耳にする「ガンスイさんに見つかったよ」などの会話でした。先生は学生たちの生活指導に当たる役でもありました。ニックネームはガンスイ先生だったのです。私にもありました。1年生の終わりころ、前夜の雪道でびしょぬれになった靴の代りに手元にあった下駄履き登校をしたのです。案の定、見つけられ大音声のもと、「待て!」と。下駄は取り上げられ裸足で校内を歩く破目になり、後で「私の所に来なさい」との命令。申し訳ありませんでしたと言って部屋に入ったら、笑いながら校内の下駄による怪我の例を話され、大いに反省したことと同時に母校生を愛し続けられた岩水昶先生の姿が今も忘れません。 終わりに、東京物理学校有難う! 東京理科大学の飛躍発展を願って結びといたします。

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