理窓 2016年10月号
42/54

38たか未だに当時の自分の行動に記憶が全くないのです。頭が真っ白というのが本当でした。東京周辺をはじめ娑婆の混乱は酷く、漸く長距離列車の切符が手に入り、ほぼ20時間程の無蓋列車に揺られながら翌朝郷里の土を踏むことができました。 さて、郷里に帰っても仕事はなく、することもない有様です。一方、講習所関連からの連絡も取れず、情報が途絶えたまま唯日数を増すだけとなりました。そのうち、中学の旧友達と語り合う中で、昭和18年の秋に赴任した理科の先生のことが話題になりました。中3の理科(主に物理と化学)の担当で、その授業は何もかも新鮮でした。実験やその説明は明快だったし、図解や計算なども解り易しいので、生徒の評判は上々だったことを思い出しました。実は、その先生は私たちの3年先輩で、何と東京物理学校を昭和18年9月に理化学部を繰り上げ卒業された三浦秀徳先生(故人)でした。なお、余談ですが、何年か前に先生のご子息も理大卒で専任講師として活躍されていると仄聞しております。 その年の暮れ近くに先生のご自宅に伺い東京物理学校の内情をいろいろお聞きして遂に単身上京を決意しました。2 敗戦後の私と物理学校2 敗戦後の私と物理学校 昭和25年3月卒業の私たちは戦後の生活困難期の真っ只中に浮沈しておりました。昭和22年4月東京物理学校東京物理学校のの思思いい出出⑫⑫1 太平洋戦争の末期と私1 太平洋戦争の末期と私 私は大正15年生まれで、旧制中学校の日常は戦時体制下にあり、誠に厳しい時代でした。昭和19年5月4年生に進級間もなく学徒勤労動員令が下され、北東北の田舎街八戸から川崎木月にあった三菱重工会社の鋳造職工たちの助っ人として働くこととなりました。全生徒寮生活の中で食糧難から栄養失調や体調不良者など戦力にならない学友が続出しました。私はその年の10月に逓信省管下の官立無線電信講習所(現電気通信大学《昭和23年文部省に移管》戦後暫く目黒の旧都立教育研究所のあった地)に入所しました。その発端は、どうせお国の為に尽くすなら、もっと気の向く職場で、且つ官費で教育が受けられ、食う処に住む処が同時に満たされるところがないかと物色していたらあったのです。応募要項をよく見ると、入所後本人の志望により逓信省、陸軍、海軍の何れかに入籍できるとありました。また、海軍課程修了後は准士官に任命されると明記されていました。 その年の8月末に川崎に引率して来ていた担任の教諭に相談したところ、国元に連絡してくれて受験手続きもご指導くださった。10月の始めに入所することが決まり、学徒動員から解除されることとなりました。結局、入所後程なく横須賀鎮守府所属の予備生徒として軍籍に入ることとなりました。翌年の4月、東京にあった講習所の寮から、新築の兵舎に移ることとなりました。その兵舎は神奈川県藤沢の鵠沼海岸にあり、眼前には江ノ島が広がっていました。 連日の猛訓練と四六時中の集団生活に皆へとへととなっていました。一方、東京は空襲に遭い、そして戦況は一段と悪くなっていきました。8月の半弦上陸(実際は半数休日のことである)中に東京葛飾の知人宅で昭和天皇の玉音放送を茫然自失の中で拝聴することとなりました。その後どうし小泉小泉  眞悦眞悦(25年数学部卒)(25年数学部卒)

元のページ 

page 42

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です