理窓 2016年7月号
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281.はじめに 筆者は現在、理学部第二部化学科に所属している。二部では学生の年齢構成も経歴も多様なので、授業を受ける学生の学力や知識にかなりの幅がある。筆者の担当は物理化学である。化学現象を物理学を基にして理解する内容であるので、当然、物理の基本的な知識が必要である。授業時間は限られているので、高校物理の内容まで扱うことはできないが、必要な物理概念のイメージがつかめるような解説を心がけている。物理化学の内容は、時間が限られた授業の場で、白紙状態の学生がきっちり理解できるようにすることはまず不可能である。自分で教科書を何回も読み込み、さらに問題を解いてみて初めて理解できるものである。したがって、授業でなすべき最も重要なことは、学生に科目に対する興味を持たせ、自分で教科書を読んでみる気にさせることであると考えている。 筆者が東京理科大学理学部第一部応用化学科を卒業したのは、昭和から平成に変わった1989年の3月であった。卒業研究では応用化学科の石井忠浩先生の研究室に所属し、ピリジン環を側鎖に持つ高分子の励起状態についての研究を行った。研究室はかなり自由な雰囲気で、卒研生だった私は毎日夕方には同期や先輩たちと飲み屋という生活であった。薄っぺらい卒業論文としどろもどろの口頭発表で卒業はなんとか認めていただいた。2.光機能性材料の研究へ 大学院は東工大長津田キャンパスの田附重夫教授の御指導を受けることになった。研究テーマは「何でもいいから何かやりなさい」と言われ、さてどうしたものかと思っていたら、田附先生はその年の5月に急逝してしまわれた。その後は当時助手を務めておられた池田富樹先生(現中央大教授)の御指導を受けることになった。結局、研究テーマは2年間かけて継ぎはぎのものをでっち上げた。修士課程の2年間は教授不在で、研究室は少々荒れた感じではあったが、自由に過ごすことができた。 修士課程が終わるころ、田附先生の後任として市村國宏教授の着任が決まり、筆者は博士課程院生としてそのまま残してもらうことになった。市村先生も研究テーマは自分で自由に考えてやりなさいというスタンスだったので、修士課程時代にいろいろごちゃごちゃと試したものから論文のテーマになりそうなものを博士研究として進めることにした。 就職については博士課程3年生の春に、民間企業かなあと漠然と考え就活を始めようとしたところ、市村先生や池田先生から「ちょっと待て」と言われたのでそのままにしていたら、冬になったころ「お前どうするつもりだ」と言われ、卒業式も近い3月7日に東北大学の助手に採用してもらうべく仙台に行って面接を受けた。当時東工大資源化学研究所の所長をしておられた遠藤剛先生(現近畿大教授)からも推薦していただき、なんとか就職することができた。3.独自の研究をめざして 就職先は東北大反応化学研究所の松田實先生の研究室であった。松田先生は当時、反応研の所長をしておられたのでとても忙しく、研究室にはほとんどいらっしゃらなかった。研究テーマも自由で、学生時代と違うものならなんでもいいから好きにやりなさい、ということだったので、数名の卒研生たちと一緒にいろいろ試すことができ理学部第二部化学科理学部第二部化学科佐々木佐々木  健夫健夫(平元理・応化)(平元理・応化)研究・・開発最最前線(2)(2)

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