理窓 2016年4月号
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16・4 理窓392 入学して2 入学して 際どい状況で入学させてもらえた物理学校は期待どおりと言うか期待以上の素晴らしい学校でした。物理学校専任の先生方の他に、東大、東工大、理研などからも著名な先生が来てくださり、熱心に且つ基礎から最新の高度なレベルまで講義をしていただけたことは実に有難いことでした。そして学問の学び方、研究の進め方とその楽しさを味わうことが出来ました。 ところで、物理学校が「出るに難しい」学校であるということもまさにその通りで、中には1年生を5年も6年も続けているという猛者もいました。しかし、これらの人達が決して怠けていたために留年したわけではないのです。私も含めて昼間働いている身には勉強時間を作るのが一苦労です。私の場合は一日の勤めを終えて中央線の吉祥寺駅から飯田橋駅までの通学電車の中が一番貴重な勉強時間でした。そして勉強に夢中になって電車を乗り過ごし御茶ノ水駅や神田駅あたりまで行ってしまうこともありました。 何とか校門にたどり着くと門番に学生証を見せて二階の大講義室に向けて我勝ちに駆け上るのです。それは少しでも先生の声がよく聞こえる前方の席に座りたいためだったのです。そのような私達が助けられたことが一つあります。それは神楽坂に入ってすぐ左折して校門に向かう狭い道の片側に、先輩たちがアルバイトとして自分で作ったガリ版刷りの講義プリントを売っていたことです。私も講義に出られなかった分などをこのプリントで補うことが出来て大いに助かりました。 そして二年生に進むと小クラスに分かれ、実験なども始まり楽しい学生生活を送るうちに、先に記しましたように太平洋戦争が始まり繰上げ卒業をさせられることになったのです。3 卒業して3 卒業して 物理学校で学問の楽しさ、研究の面白さを味わった私は大学に進んで更に勉強したいと思うようになったのですが、ここでまた平和で自由な今の時代の皆さんには考えられないような困った事態が起こりました。 それは勤めていた研究所の上司から、やっと使い物になりかけた所で研究所から出て行かれたのでは困る、絶対に退職は認められないと言うのです。一応もっともな点もあり私も困り果てたのですが、結局最後には大学を卒業したら必ず中央航研に戻って来ますとの約束をしてどうにか退職を許され、九州大学理学部物理学科に入学することが出来ました。 入学後も戦局はどんどん悪化し、ここでも半年間の繰上げ卒業になり昭和19年9月に研究所に戻りましたが、翌年8月に日本は敗戦、連合軍の施政下に置かれ、今後航空機の運行・製造・研究は一切禁止の命令が出て研究所は廃止の運命となりました。 その後いろいろありましたが、昭和25年に再び九州大学に呼び戻され定年まで研究と教育に携わることが出来て、東京物理学校にいささかのご恩返しが出来たかと思っています。 最後になりますが、東京物理学校よ、有難う、有難う。

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