理窓 2016年4月号
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38して、昭和14年3月入所式の前々日に生まれて初めての東京の地に唯一人で到着しました。当時私には東京に親戚も知人も無く、いろいろと苦労しましたが、数日後やっと物理学校へ入学願書を持参することになりました。 これを出しさえすれば晴れてあこがれの東京物理学校の学生になれるものと信じながら窓口に願書を提出したところ、あにはからんや入学志願者は既に定員(たしか1000名程度)に達したので受け付けられないとのこと。私にはまさに青天の霹靂でしたが、もし入学辞退者があれば補欠入学が許されるとのことで、とりあえずその手続きをして補欠の16番という番号を受け取りました。果たして16人以上の辞退者があるかどうかが運命の分かれ目となり、それこそ神に祈るような気持ちで発表の日を待ったのですが、発表の結果はまさに補欠の16番までが入学できるということで本当に有難いことでした。私にとってはまさに「入るに難しい東京物理学校」だったのです。 話は飛びますが、私が物理学校の3年生になった昭和16年時局はいよいよ最悪の事態になり、この年の12月遂にあの悲惨な太平洋戦争に突入しました。そして、政府は大学や専門学校の学生の繰上げ卒業をさせる方針を取り、私達もあと3か月の勉強期間を残しながら卒業させられることになったのです。ですから、この意味で私には「出るに易しい学校」ということになりました。東京物理学校東京物理学校のの思思いい出出⑩⑩1 物理学校入学まで1 物理学校入学まで 東京物理学校と言えば、昔から日本の理科教育の推進に大きく貢献したということと同時に「入るに易しく出るに難しい」学校として有名でした。しかし私にとっては、ある意味では「入るに難しく出るに易しい」学校でした。このことについて始めに少し書かせていただきます。 私の幼少年時代は、満州事変、上海事変、2.26事件などと悲惨な破局に向けてひた進む時代でしたが、同時に多額の軍事費のために世の中は不況の真っ最中でした。その頃尋常小学校6年の義務教育を終えた私は、家庭の経済状態が苦しく中学5年の課程に進むことが出来ず、高等小学校(2年)に進まざるを得ませんでした。高小卒業後は家業(青果商)を手伝いながら、漫然と好きな本を読んだりしながら過ごしていましたが、ふとした機会に文部省が行っていた専門学校入学者資格検定試験(専検)の存在を知り、古本屋などで中学生の参考書を探して来て独りで勉強を始めました。 試験は春秋2回ありましたが、試しにと思って受けた1回目の試験で思いがけず数学・国語など何科目かに合格したので、残りの科目に集中して勉強を始め、特に英語には苦労しましたが、幸い半年後の昭和12年秋に全科目を合格して、曲がりなりにも中学5年卒業の資格を得ることが出来ました。 ちょうどその頃戦時態勢が厳しくなり、技術者を大量に養成するため、中学卒業生に1年間専門教育を行って工業学校5年卒の資格を与える制度ができましたので翌年4月に大阪市立都島工業学校第二部電気工学科に入学しました。在学中に東京物理学校の存在を知り、卒業後は東京で就職して夜物理学校に通いたいと思うようになりました。幸いなことに当時逓信省に新しく「中央航空研究所」を設置する計画があり最初の募集に合格辻 幹男辻 幹男(16年12月理化学部卒)(16年12月理化学部卒)(九州大学名誉教授)(九州大学名誉教授)

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