理窓 2016年1月号
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34を貸して貰うことをお願いし、5,000円無利子3ケ月で許可された。薬の置き場所と販売場所は食堂の経営者にお願いし食堂の一部使用を許された。 風邪薬など順次学生の希望も聞いて拡大し販売経費が懸からないため利益が出て3カ月後、期日に返金した。専務理事からは学友会に貸した金を期日に返して来たのは君が初めてだという。2倍の10,000円を新たに借りたいと申し入れた。学友会では駄目だが君個人なら貸しても良いとのことで借りて、3ケ月後にお返しし以後は借りる事なく続けられた。レントゲン間接撮影などの工夫レントゲン間接撮影などの工夫 専務理事から学生の身体検査について話があった。年に一回行うことになっていて、全部外部に依頼しているので高額で困っている、何か方法が無いか考えてほしいとのこと。当時は結核が国民病として考えていた時代なので検査はツベルクリン検査、BCG接種、レントゲン間接撮影が主要なものでこれらを安く出来ればよいのである。 レントゲン間接撮影は、当時は理系学生のバイトであった。レントゲン装置を撮影場所の学校や集会所等へ運ぶ時、砂利道をスプリングの悪い車で行くため配線が切れることが多く、必ず到着後チェックして半田付けで修理しなければ使用出来なかった。これが理系学生のバイトの理由で割りの良いバイトだった。レントゲン管は毛布でくるみ東京物理学校東京物理学校のの思思いい出出⑨⑨記録の喪失記録の喪失 私は終戦の翌年昭和21年物理学校理化学科に入学24年卒業、同年発足した理大3年編入26年1回生として卒業した、戦後の混乱期で今では考えられないことができ、特異な記録が色々出来たが、残念ながらこの記録を知る人が少なくなった。自分の病気が出発点自分の病気が出発点 昭和22年2月2年に進級が確定して本当の物理学校生となれそうになった時、私の左手が痺れ、掛かり付けの内科医院に行き診察を受けた。当時の町医院にはレントゲン装置など無く、紹介状を持って東大付属病院にすぐに行くよう指示された。大学病院で調べたが原因は判明せず即日入院し、その後色々検査したが確定せず、切り開く事になった。判明したのは嚢腫で異細胞が神経の近くで成長して影響を受けたとのことで、脳内なら致命的だが普通は問題ない。多分胃の細胞が混入して成長したらしいとのことであった。傷が深く回復に時間がかかり退院は4月半ばになり色々な患者を知ることになった。保険の未だ無い時代で、医者にみて貰う事も薬を買う事も大変な時で、薬だけでも安く手に入ればと考えて行動を起こした。学友会に医療班を設立学友会に医療班を設立 まず2部の学生で昼間の勤務先が薬問屋の者がいないか学生課で調べてもらったら、幸いな事にいた。その学生に会い、上司に会うことを依頼して数日後会うことが出来た。学生の現況を話して、薬を安く分けて貰うことをお願いした。正規な店ではないので掛け売りは出来ないが現金なら分けてよいとなりそれでお願いすることにした。学校に帰りまず学友会に医療班を設立して薬を売る態勢を造り、経理をみておられる専務理事に話をして金君塚君塚  弘明弘明(24年理化学)(24年理化学)(東北大学名誉教授)

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