理窓 2016年1月号
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3316・1 理窓ががんばるんばる同窓同窓理科大を卒業して 大学を卒業したのは1995年3月のことで、卒業してからちょうど20年が経ちました。卒業式はオウムの地下鉄サリン事件のあった日で、今でも新聞やテレビでサリンという言葉を聞く度に、卒業式の日のことが思い出されます。卒業時点でアメリカの大学院への留学を志望しており、就職先も進学先も決まっていない状況でした。それにも関わらず、卒業研究の一年間がようやく終わったという妙に清々しい晴れ晴れとした気持ちで武道館に向かったことを覚えています。大学の4年間は実験、レポート、テスト勉強、時にはアルバイトに追われ、あっという間に過ぎ去りました。真面目で理屈っぽい学生が集まる東京理科大学での学生生活は、地味ではあったけれども、自分にとって生涯忘れることのない学びの多かった日々です。 卒業研究のテーマは液晶で完全に化学系でしたが、留学先のアメリカの大学院では国際環境政策という、その当時、まだ新しい分野を選びました。オゾン層破壊、温暖化、ごみ問題、絶滅危惧種など、環境問題が脚光を浴び始めた頃です。大学院時代は、ウィーンにある国際連合工業開発機構とワシントンDCにある南極の自然環境の保護を目的とするNGOでインターンシップも経験しました。ウィーンでは、オーストリア、イタリア、ドイツ、トルコ、スペイン、ギリシャ、ロシアなどさまざまな国の人々と知り合い、日本やアメリカ以外の文化や価値観を身近に感じることができ、今の自分にとって宝物のような経験です。ITの世界へ 大学では化学、大学院では国際環境政策を勉強しましたが、その後、IT業界に入りました。当時、環境分野での就職が難しいと考え、父が創業して一年足らずのITベンチャーに就職しました。1998年の4月のことです。 就職してすぐに困ったのはIT知識のなさでした。長兄に週一度の講義を受けたり、本を買って勉強したりしましたが、結局はIT技術者にはならず、営業に近い仕事をしています。具体的には、企業向けのセキュリティ関連のソフトウェアを海外から輸入し販売しています。就職当初は、ビジネス英語はまだまだで、日々の取引先との電子メールや電話のやり取りで鍛えられました。失敗しては取引先の担当者から注意を受けたり、怒られたりして、仕事を覚える毎日でした。 就職4年目の晩秋に代表取締役であった父が心筋塞で倒れました。当時、事業を拡大しつつあり、従業員が10人以上いましたが、それまでほとんど一人で仕事を取ってきていた父が倒れ、会社の経営状態はガタガタになりました。そこから一年の間に、父も心筋塞から回復し、会社も従業員の人数を減らし、家族中心の会社になりました。現在では、長兄、次兄もエンジニアとして、母は経理として、同じ会社で働いています。気心知れる家族と仕事をすることは、非常に良いチームワークを発揮することもありますが、それよりも、家族同士の遠慮のなさからぶつかることも多くありました。父も私も成長しそのような言い合いの数は減りましたが、振り返ってみると、家族に限らず、本音でぶつかることで、お互いをよく理解しより良い関係を築くことができるようになるということを学びました。 ITの世界に入ったのは消極的な理由でしたが、今ではこの仕事が天職かもしれないと思います。日本はもちろん世界のさまざまな会社、人、技術に出会うことができ、その中で、日々、成長する機会を与えられ、自分もまた、販売した製品を通じて誰かの役に立っていると感じられる喜びがあります。そして、取引先との交渉に困った時には、理科大での実験とレポート書きを通じて培った論理的思考力と忍耐力が大いに役立っています。 (アイディネットワークス(株)取締役)岡本 麻代(平7理・化)ITの世界に入って

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