理窓 2015年10月号
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36課程年数を見れば(3)の課程を終えるときは満20才をすぎていることがわかります。 1年次のときは1クラス100人から200人位だったと思いますが、2年次に進学したときの数学部は約50名位だったでしょう。夜間のクラスも同じ位と思います。他の理化学部などは100名以上だったでしょう。各学科とも授業は午後1時から5時頃まででしたが、週に一度は午前中必修の軍事教練があり、雨でなければ中庭などで行われ、時には現在武道館になっている九段の近衛師団の庭まで行軍していったこともあります。 私が2年次のとき大戦が布告(昭和16年12月)されたのでしたが、軍事態勢ということで修業年限は半年短縮されました。従って昭和17年9月卒業となったわけです。数学部の卒業生は中等学校の教員、生命保険会社などが主な就職先でしたが兵役につかれた方も多かった気がします。また理数系をもつ旧帝大でも東大、京大以外は定員に不足があり補欠募集も行われていました。東京物理学校からはここに進学する者が例年あり、私も同級生3人と共に東北大の数学科に入学したのです。同時に何人かの先輩も入学しました。定員15東京物理学校東京物理学校のの思思いい出出⑧⑧11 現在の学校制度は、6・3・3・4制といわれていますが、それ以前の昭和時代の旧制度は(1) 小学校:修業年限6ヵ年(2) 中等学校: 中学校、高等女学佼、商業学佼等の専門学校、5ヵ年(3) 高等学校、高等専門学校、大学予科等主に3ヵ年(4) 大学、3ヵ年が基本で、(2)以上の学校は別学で、女子高は女子商業、女子医学専門学校等と「女子」が冠付けされていました。修業年限も異なるものがあります。この区切りとは別に教員養成の師範学校や軍人幹部養成の課程もありました。東京物理学校はこのうちの(3)の段階に属するもので女子学生はいなかったと思います。 各段階に進学するための入試は現在と同様の難関で、有名校はたいへんな倍率になっていました。しかし東京物理学校は入試を行わず事務手続きのみで入学が許可されました。学科は数学部、理化学部、応用物理学科、応用化学科がありましたが、1年次では学科別の組分けはなく、実験実習もありませんでした。従って1年かけて入試を行うような結果で、1年次から2年次への進級は難関といわれました。当然ですが、3年続けて進級に失敗すると退学となります。私が入学したときは、今年で9年目という学生もいたことが思い出されます。入学手続を仕直すわけです。当時満20才に達すると徴兵検査があり、戦時体制もすすんでいるので兵役に服さねばならないのです。しかし学生であればこれは猶予されるのです。上の土倉 保土倉 保昭和17年9月数卒昭和17年9月数卒(東北大学名誉教授)(東北大学名誉教授)習志野の廠舎習志野の廠舎銃剣道のサークル銃剣道のサークル

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