理窓 2015年10月号
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2515・10 理窓ががんばるんばる同窓同窓就職 大学卒業後、国立系の大学院に進学し、その後、産業機械のモーションコントローラーを製造しているFANUCへ就職しました。そちらでは、CNCと呼ばれる工作機械のコントローラー部分のハードウェアの設計開発に携わっておりました。転職し、地元愛媛へ帰郷 現在は㈱日鋼今治という、給排水衛生設備、空調換気設備、上水下水道等の機器や資材を販売する会社を立ち上げ、代表取締役をさせていただいておりますが、ここに至った転職について、また、会社立ち上げ当時の事について触れさせていただければと存じます。 FANUCに入社4年ほどたち、仕事も面白くなってきたところでしたが、田舎の父より、どうしても家業である配管材料の卸売の会社をもう一つ立ち上げようと思うので、その会社立ち上げに力を貸してくれないかと懇願がありました。今まで、決して、息子の自分にお願いをしてくるとは予想だにしていなかった父から、まさかの懇願でした。その時、本当に悩みました。しかし、熟考すればするほど「考えれば考えるほど、まず今の会社を辞めることなどできない」と思いつつも、ほぼ、何も考えず、カンと情だけで、脱サラリーマンを決意し、地元愛媛へ帰郷したのでした。この決断が、今思えば、人生の大きな決断の一つだったということは、言うまでもありませんが、会社経営はおろか、家業とはいえ配管材料などは全く理解しておらず、本当に0からのリスタートでした。 まず、商品である配管材料を覚えることから始まり、パイプ等の配管資材の現場への配送業務。いわゆる下積みの経験から、容赦ない父や先輩社員からの洗礼を受けました。当時、会社を辞めたことを後悔しない日はないくらい、とてつもなく後悔をする日々が続いたのを記憶しています。 そして、1年ほどが過ぎたところで、頼りにしていた父がガンのため急死し、後悔どころではなくなりました。 まさに青天の霹靂でした。 このとき、生まれて初めて「自分がしっかりしないといけない!!」と強く感じたのでしょう。そこからの数年は、思い出せないぐらい一心不乱に仕事にまい進しておりました。 社員としてのスキルも未熟な段階で、いきなり会社経営という未知の業務が降ってきたのです。 当時、どんどん出てくる問題に対しては「客観的に観察して、本当の問題点を見つけ出し、それに対する答えを導くということだけだ!!」と自分に強く言い聞かせて、様々な問題に、真正面からぶつかってゆきました。 当時は必死すぎて、感じることもなかったことですが、今思えば、この時の自分が、自分なりに様々な問題に直面し、それらを乗り越えられたということは、理科大をはじめとする理科系の環境、特に研究室での昼夜問わずのような実験生活などのおかげだなと強く感じ入る次第です。 特に、IT環境が脆弱であった弊社の基幹業務システムや経営指標の分析などは、非常に理科系的なセンスが役に立ったのではないかと、今となってではありますが、心から感じております。おわりに 地元へ戻って12年ほどが経ち、仕事も何とか落ち着いてきたところで、先日、初めて地元愛媛にて理窓会に参加させていただきました。そこで、久しぶりに、自分が理科系出身だったということを再確認させていただきました。また、このように広い世代にわたり、先輩方が多くいらっしゃることも確かめることができ非常に有意義さを感じました。 今後はできる限り、このような会に参加させていただき理科大を通じた地元愛媛でのネットワークの一助となれればと考えております。今後ともよろしくお願いいたします。㈱日鋼今治 代表取締役近藤 吉朗(平9理・物)

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