理窓 2015年7月号
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36石炭庫の消失のみで大禍なきを得ました。このことは、消火活動に当った教職の方々、我々同期生の一生涯の誇りに思って居ります。2 豊島園での運動会の思い出2 豊島園での運動会の思い出 昭和21年秋に運動会を開催した事は、物理学校始まって以来の快挙であり、誠に喜ばしく、敗戦のショックと戦中戦後の混乱、苦労等、そのうさ晴らしを兼ねて各科アイデアを競い合い、騎馬戦を始め、思い思いの趣向を凝らした仮装行列等、青春を一挙に発散させた大運動会となりました。この様な事が切っ掛けで卒業後、大学に倶楽部が出来たのを機会に集まり、更に22年会を作り、毎月の会合を楽しむ様になりました。東京物理学校東京物理学校のの思思いい出出⑦⑦1 戦争中の思い出1 戦争中の思い出 私達昭和22年3月の卒業生は、太平洋戦争末期から敗戦後の混乱期にかけて在学した者達です。 食糧難から栄養失調で体力が極度に落ちている中で、日夜を分たぬ空襲に耐え、また焼け出された級友たちを下宿に迎えるなど、共に支え合い助け合いながら勉学に励んで参りました。 この様な事が結果として、我々同期生の結束を強めていった事と思います。 我々級友は諸先輩達が勤労動員、一部兵役に服する等で殆ど学校での勉学が不十分な中、幸いそれを免がれ、一時期軍需工場や消防署への動員、埼玉県の出征農家の手伝等もありましたが、比較的短期間で済み、殆ど学校で授業を受けていました。 併し空襲が激しくなるにつれ、各学年より防空当番として十数名宛学校に泊りこみ、その任務に就きました。最も激しかったのは2度あり、一つは4月13日で、学校の裏まで火災が迫るも難を逃れ、更に5月25日では講堂に3発、石炭庫に1発、屋上その他に十数発の焼夷弾が落下しましたが、金井健一金井健一昭和22年3月応化卒昭和22年3月応化卒大空襲にも焼け残って大空襲にも焼け残って

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