理窓 2015年4月号
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15・4 理窓334 昭和20年8月15日4 昭和20年8月15日 敗戦は学校で迎えました。3年次のみが学校へ戻っていたからです。中庭の階段の上にラジオを持ち出し、配属将校の陸軍大佐の訓示のあと、いわゆる玉音放送を聞きました。何やら分かりませんでしたが、どうも日本は負けたらしいということだけは理解できました。皆ざわざわしただけで自然解散になりました。学校当局もどうしてよいか分からず、とりあえず翌16日から8月末までを夏休みにすると発表して、その場を取り繕ったような始末です。日本は今後どうなるのか分からない、もう学校へ行っても仕方がないと思いましたが、さりとて自宅で遊んでいても仕様がないとも思いました。そこで、この夏休み明けには学校へ行き、3年次の試験を受けました。これが事実上の卒業試験でした。5 昭和20年9月の卒業式5 昭和20年9月の卒業式 卒業式は理研の所長だった大河内正敏校長が出席されました。私はこの卒業式には出席せず裏手の小部屋で国歌斉唱の伴奏レコードの係りをしていました。実をいうと私は卒業すること自体ができなかったのです。9月の試験の2日目が台風による事故で総武線が不通になってしまい試験が受けられなかったためです。結局10月に追試験を受けて無事に卒業しましたが、たった2年半の学校生活は短いようだけれども非常に長かったという感じです。卒業証書はガリ版刷りのワラ半紙でしたが、翌年に改めて厚紙の卒業証書が送られてきました。6 神奈川科学技術アカデミー6 神奈川科学技術アカデミー 戦後、私は昭和28年に出来たジャパックスという放電加工機メーカーに入りました。同社は池貝鉄工の子会社でしたが、その池貝鉄工が潰れてしまったために、溝の口工場跡の広大な敷地の利用方法の問題が出てきました。そこで各自治体の援助による民活法適用第1号に認定された、かながわサイエンスパークというインキュベーター施設を作ることになりました。社長は岡崎嘉平太、副社長は井上潔・飛島章の各氏でした。 しかし、入居を期待していた研究開発会社が入らず、神奈川県の長洲一二知事と東工大の斎藤進六学長が相談して、同学長を理事長とする、神奈川科学技術アカデミーという大学の研究機関のようなものを作って、当該施設の大半を埋めることにしました。 その後、斎藤理事長は長岡技術科学大学の学長になられたため、理科大の藤嶋昭学長が、その後を継いで第二代の理事長を務められました。7 新超電導材料研究会の設立7 新超電導材料研究会の設立 斎藤進六先生とは公私ともに関係がありました。公の面では、科学技術庁傘下の新超電導材料研究会の設立で、同先生を会長として折からの世界的な超伝導ブームに対抗しました。私の面では、縄文中期の土器や土偶の研究です。長岡の馬高遺跡から出た火炎土器や遮光器土偶については、いささかの知見も公表し、また、つくば科学万博の松下館には当該モデルを出品しました。いずれも斎藤先生の指導によるものです。8 健康法としての自転車8 健康法としての自転車 特に健康法を意識したわけではありませんが、長年タンデム(二人乗り自転車)に乗ってきたことが結果として健康法につながっているようです。今も日課として毎日1時間ほど走っています。

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