理窓 2015年4月号
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32福田節雄(電気工学科)のほか、理研の黒田正夫、東工大の川下研介、早稲田の沖巌の諸先生でした。今にして思えば、こうした先生方の講義を受けただけでも幸せでしたけれど、時間そのものが小間切れのために、いつ3年生になったのか分からぬままに進級してしまいました。後で知ったことですが、当時の学籍簿には2年次は「動員成績」という文字のみがゴム印で押されています。学科試験などなかったのですから点数なしというわけです。 真島先生の講義のテーマは応用物理学実験で、並行して行われた物理実験そのものを補完する意味もありました。物理実験は軍隊式で、その事前と事後に実験室内で整列して点呼が取られました。気合を入れて実験をやるという効果があったと思います。3 物理学校卒業前3か月3 物理学校卒業前3か月 勤労動員は6月でやめ、7月から学校に戻りました。卒業前の3か月くらいは授業を受けさせる必要があるためです。授業内容は機械科もどきで、科目は結構ありましたが、材料力学以外は覚えていません。それも教科書なしの授業ですから、力学の計算式なども頼れるものは自分のノートのみという不安を禁じ得ない状況でした。他には佐々木六郎先生の設計製図がありました。堂々たる体躯の方で、その科目たる内燃機関のような圧力ある講義だったことが印象に残っています。東京物理学校東京物理学校のの思思いい出出⑥⑥1 東京物理学校入学1 東京物理学校入学 入学は昭和18年4月、入学式などはありませんでした。東京物理学校は長年にわたる無試験入学の伝統がありましたから、1年生は昼間(午前と午後)が2000人くらい、夜間が1000人くらいだったと思います。理工系の専門学校で著名なのは物理学校だけだった事情も手伝ってのことと思います。 科目は基礎学科のみで、先生は芥(解析幾何)、関(高等代数)、坂入(微分積分)などの、いずれもベテランの方ばかりでした。他に物理、化学の講義もありました。途中で関先生が、ただいま召集を受けたと挨拶されたのには驚きました。むろん講義はそれで終わりです。教室の中は声なしでした。何という勿体ない話だと思いました。 当時は大東亜戦争は中だるみ状態で、戦局がそう厳しくなかったために、いわゆる理工系学徒の徴兵猶予制度が維持されておりました。物理学校の生徒も然りです。私自身も昭和19年に徴兵検査自体は受けましたが、兵役には服しませんでした。昭和20年10月に座間の陸軍士官学校入隊ということは決まっておりましたが、すでに軍隊は解散しつつある時代になってしまいました。2 東京物理学校2~3年生(応物)2 東京物理学校2~3年生(応物) 昭和18年当時は未だ神楽坂の白十字で無糖コーヒーを飲むくらいの生活ができましたが、2年生になって級友200人余りの応用物理学科と決まったとたんに6月から勤労動員です。ただし、勤労動員中も週1日は休んで学校へ出て授業を受けることになり、そこで級友と相まみえて応物生らしくなってまいりました。また軍事教練があったのも級友との絆を強める上で役立ちました。 当時の応物の先生は東大工学部の真島正市(科長)、菅義夫、神山雅英、筒井俊正(計測工学科)、内田 功内田 功昭和20年9月応物卒昭和20年9月応物卒

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