理窓 2015年4月号
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15・4 理窓21「坊っちゃん賞」を受賞して(有)ベルアソシエィツ 代表取締役理学博士 鈴木 弘昭(41理・化) 「日本の理科大から世界の理科大へ」は“50年前に始まった”と言ったら叱咤されるに違いないが、東京理科大学の「火災科学研究所」は今や、世界の大学の中で、施設といい、スタッフの専門領域の広さといい、質・量ともに世界一である。 丁度50年前、故半田隆名誉教授が東京理科大学に赴任(助教授)されて、第一期の卒業研究生から理科大の火災研究が始まった。それ以前の火災研究は、専ら、東京大学が任っていた。 半田研の第一期生の一人に私がいた。「煙の粒子による光散乱」のテーマを、修士課程に入って、「火災性状をテーマにしたい…」と半田先生に申し出たところ、「それなら、先ず、“モノを作れ”、そして、それが火災研究にどう繋がるか考えろ」とご指導を受けた。昭和30年代後半から、「火災時における建築材料や化学製品からの煙による死傷者の急増」がマスコミを賑わし始めていた頃であった。 「難燃化すれば燃焼が抑えられ、煙も少なくなる」と考えて、プラスチックの“難燃化”を提案したところ、「それを、合成しろ」と下命(?)されて、特許庁や国会図書館に通い、特許公報やChemical Abstractを調べて、ゼロから9ヶ月掛かって難燃化エポキシ樹脂を合成した。 難燃化したエポキシ樹脂は“燃えないだろう”と思っていたところ火災時の熱では全く“逆”だった。猛煙が発生する様になることが解って、益々、火災研究の重要性に気付き、興味が湧いた。 建設省建築研究所(建研、現国土交通省)に入って3年目に英国王立火災研究所のP.H.トーマス博士を招いて講演して戴く機会に恵まれた時、「講演内容を私に翻訳させて下さい」と申し出た。火災研究分野では、それまで(1973年)外国の専門家による一般講演会は開催されたことがなかったし、まして、参加者に日本語訳が配られた講演会はなかった。半田研後輩の高橋惇君(後に、高砂熱学工業株式会社・綜合研究所長)に手伝ってもらいながら短期間で冊子にまとめた。 これがきっかけになって火災研究部門の国費留学(現、文部科学省)第一号に繋がった。 1975年、英国王立火災研究所に留学し、滞在中に、ヨーロッパ各国で開催されるISO、CIB等国際会議への参加や多くの研究機関にP.H.トーマス博士(写真)に連れて行って戴き、多くの研究者と交流して、知人、友人になった。 英国から帰国(1977年)すると「日米政府間会議:UJNR-防火専門部会」が発足したばかりで、日本側の幹事を仰せつかった。この頃から、UJNR・防火を軸に、日本における火災研究の国際化が始まった。個人的には、後楽園ドーム球場のテント膜、アーケードの屋根、バス停の屋根、建築物の断熱材等々プラスチックの利用拡大と火災安全性の評価の実験等で超多忙になった。そして、インドネシア国への都市計画・防火研究協力も並行して、「防火指針」をまとめたところ、そのままジャカルタ市の防火基準として採用され、現在ではインドネシア全州の半数以上で防火基準として採用されている。 一方、1981年に理科大に火災研究所が誕生し、各学部からスタッフが集められて組織となった。私も“客員研究員”の委嘱を受けた。 日米間の、UJNR-防火部会が定期的に開催されるようになり、CIB W 14(国際建築研究情報会議・防火)等の国際シンポジウムも開催されるようになると、海外からトップ研究者が多々来日される様になったので、P.H.トーマス博士を始め米国、他の火災学者に理科大でも講演して戴く様になった。 野田キャンパス内に立派な火災研究施設の建物が完成したのは2005年で、徐々に、施設、スタッフが充実されて行き、理科大外の研究者ともコラボしながら火災研は名実共に充実し、「グローバルCOEプログラム」の拠点へと発展した。(左)P.H.トーマス博士 (右)ご本人(左)P.H.トーマス博士 (右)ご本人

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