理窓 2015年4月号
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20「坊っちゃん賞」を受賞して株式会社富田製作所富田 英雄(56理工・機) 『大変名誉ある賞、受かれば「坊っちゃん」、落ちれば「ポッチャン」・・』と、新年茶話会の「坊ちゃん賞」謝辞での始まりの言葉で、厳粛な会場の雰囲気を一変させてしまった。 対象となる業績課題は、「日本の代表的な構造物の製作と日本の物作りへの継承と挑戦」です。 私は、理科大卒業後に、10人弱の零細の伸銅品商社に修行入社しました。早朝から夜遅くまで東京の下町の中小零細企業から部品を集め、横浜刑務所や身体障害者施設等へ部品を配送し、ボールペンの組み立ての指導を行い、完成品を群馬県まで納品する営業職でした。寝る時間もなく、何も悪い事をしていない私より囚人の方が幸せに思える毎日でした。そこでは、「建学の精神」を感じる事もできず、カルチャーショックもあったが、多様性を学び貴重な経験をした。 1年後、父の経営する鉄工所に入社した。小さな町工場だが、「板金世界一をめざし、良質な製品を通じて社会に仕え奉る」という理念を掲げ、「世界一になるには、世界一の道具が必要」と、私の入社を待って、当時、世界最大級の1万トンプレスを発注してしまった。全財産を抵当に入れ、一家離散覚悟の挑戦に出た。そこで、理科大の「建学の精神」を垣間見ることができた。 鍛冶屋職人の父の技と理科大で学んだ確かな基礎知識と創造性と開拓者精神とを融合させなければと命がけで精度の高い丸い鋼管を成形する技術の研究を重ね、JIS認証を収得し、大径鋼管メーカーへと歩み始めた。 しかし、「最後の花道を飾らせてくれ」の父の言葉で機械工学科の私が、不動産屋になり新たな工場用地を探し、多くの難関を乗り越えて、20億の借金で、つくば工場を完成させた。2週間後の竣工式を待たず、父は他界し、桁外れの借金と責任で、正直、生きている心地がしなかった。 より社会に貢献できる工場を求めて挑戦したが、無謀な挑戦者となってしまった。 少しずつではあるが、信用と信頼を重ね、大きなプロジェクトの引き合いが来るようになった。 特に羽田空港のD滑走路の桟橋杭は、当社の理念に合う仕事で、6億の先行投資を行い、隣地買収、建屋増築、機械増設等、大改造を行った。最大の難関は、Φ1600*3.14倍の幅5m*長さ9mで1枚10トンの鉄板を関東平野のドマンナカまで運ぶ事でした。特殊斜め台車の発明特許が認定され、特殊車両申請許可が下り、鋼管杭のJIS認証を収得し何とか受注にこぎつけた。総重量1万トン、1500本の鋼管を昼夜交代勤務の中、東京スカイツリーの鋼管製作の依頼があったが、新たな設備投資や厳しい工程設計や大臣認定や厳しい入学試験をパスしなければならず、受注に躊躇した。しかし、業平は、私の母の生誕地であり、父の残した世界一の道具で作らなければ、と受注する事になった。直径Φ2300*板厚100㎜、重量15トン/本、降伏耐力500N/㎟、寸法精度±2㎜と、大変厳しい仕様の鋼管です。理論と実験を重ね、実践に向けた技術と技能の融合が必要とされ、完璧な品質であった。 更に、その技術が評価され、東京駅八重洲口のグランルーフのデザイン重視の異形な柱や梁の製作を依頼され、設計部長より「その出来栄えに感動した」と称賛され、大変嬉しかった。 平成26年4月23日には、更に世界最大の16000㌧プレスを導入した。まだ、何の仕事の当ては無いが、新たな日本の物作りの継承に挑戦し、理科大の「建学の精神」を心に刻み、更に「坊っちゃん賞」に報いるよう「良質な製品を通じて未来社会に奉仕」の理念を以て技術継承して参ります。

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