理窓2014年10月号
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38《学校報国隊防空補助員》 2年生に進級した昭和19年度には空襲が厳しさを増し、2・3年生は警報発令の際に学校報国隊防空補助員としての任に着きました。私は四谷警察署管内の第4分団で四谷第四国民学校に赴援し、警防班に所属する事になっておりましたが、幸いにも、出動の機会はありませんでした。《報国団航空班=部活動》 在学中は先の太平洋戦争の真っ最中で、部活動は無くて、飛行機に熱中していた私は、学生航空隊(戦前戦後の学生航空連盟)整備部に加盟していた「東京物理学校報国団航空班」に同期の遠藤穆彦君と共に入りました。私たちは特訓を受け、軍用機の整備に従事し、戦力の一端を担いました。特筆すべきは横浜市磯子区の八幡橋に近い海軍の管理下にあった大日本航空の水上機の基地で4発の97式及び2式の大型飛行艇(サイパン島往復の現用機)のエンジン・プロペラ・自動操縦装置等を整備し、2時間余の洋上試験飛行にも搭乗した事、又調布飛行場で帝都防空の震天制空隊の(顔写真-ネクタイピンの徽章は校章)東京物理学校東京物理学校のの思思いい出出④④《物理学校に入学して》 私は大正13年生まれで、旧制中学校在学中に肺結核で昭和16年4月~17年3月の1年間休学、18年3月に卒業し、入試には失敗しましたが、理工系志望の私にとって幸いだったのは・・・「東京物理学校」に無試験で入学出来た事です。・・・ その年の10月には学徒出陣で文系学徒は学業を断ち戦場に赴きました。当時は徴集年齢が19才になっていたので、若し浪人をしていたならば、兵役に付き別の青春を歩んでいたでしょう。現在の私があるのは「東京物理学校」の御陰です。(因みに、私の兄は文系で学徒出陣し、戦没しました)……戦時下の学徒生活…… 真の物理学校生は2/3年生で、2年に進級できるのは約1割で1年生は予備校生の様なものでした。私は席次〈453/538〉で、薄氷を踏む思いで進級しましたが、戦時下の特有な学徒生活の体験を記します。《戦時学徒勤労動員》 徴兵延期中の私達も学業に専念する事は許されませんでした。戦時学徒勤労動員令により、中等学校以上の学徒は男女共、軍需工場などに勤労動員されました。徴兵前の文系学徒や中等学校生は学校単位で動員先が決められ、労働作業に就いたが、理工系の特典として、動員先を選択が出来、学識を活かす事が出来ました。私は東京航空計器を選び、社員扱いで、高等女学校生を配下に置いて職場の長としての経験を致しました。清水一三雄清水一三雄昭和20年9月理化学部卒昭和20年9月理化学部卒

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