理窓2014年4月号
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34遠藤 美寿 先生(力学) チョークを2~3本手にされた先生は悠然と教室に入ってこられ、「では諸君、前回の続きから…」と講義を始められる。黒板に新出の術語や図を書く以外は、教卓を前にしてゆっくり話を続けられる。我々は一語も聞き漏らさないようにノートに取った。講義が終わってノートを見ると、そのまま、みごとな文章になっていた。先生の頭の中はどのように整理されているのかと不思議に思った。2年次末の動員中に、大学補欠入学の機会が巡ってきた。単調な肉体労働に飽きていた私は勇んで仙台に向った。試験は散々の出来で、合格できなかったが、出題の中に、荷車を引いて坂道を登る人について、加わる力の関係を論ずる問題があり、どのような解答が正しいのかわからず、解けなかった。夜行列車で帰った東京は、下町が大空襲で焼き尽くされていた。 動員が解除されて母校に戻り、廊下で遠藤先生に出会った時、勇を鼓して先生にこの問題を尋ねてみた。先生は直ぐに、「君、紙と鉛筆を出しなさい」と言われ、廊下の壁に紙をあてて、図を書き、理路整然と解答を示された。あらためて先生の理解と推理の的確さに感嘆した。谷 安正 先生(電磁気学) 先生の講義は型破りなものであった。眼鏡を光らせながら、「最初に電磁現象とその相互関係の本質を徹底して理解すれば、それを記述する理論式などは自動的に導かれる。だから、講義のノートをとる必要は無い。」と言われた。我々は先生が黒板安盛岩雄昭和20年9月理化学部卒東京物理学校東京物理学校のの思思いい出出─ ─ 忘れえぬ恩師の方々忘れえぬ恩師の方々 ─ ─③③ 私は昭和18年4月に、5年間勤務した会社を退職し、物理学校に入学した。その企業では、米国で普及している冷蔵庫や洗濯機、電気時計などの家電製品を国産化していた。工業学校の機械科を卒業して入社し、設計・試作研究室に配属されたが、実際の業務は、インチスケールで画かれた米国の図面をmm単位に直す単純作業であった。 作業に慣れてきたある日、材料を浪費する設計を見つけて改善を提案したところ、職場の規律を乱すと上司に厳しく叱られた。着想が評価される場で働きたいとの思いが進学の強い動機となった。 昭和16年、太平洋戦争が勃発し、会社の業務は軍需品の生産に切り替えられた。しかし、私の決心は変らなかった。 当時の物理学校の入学・進級のシステムはユニークで、入学は無試験で先着順、1年次生の定員は2年次生の数倍であった。この厳しい2年次への進級を猛勉強で何とか突破することができた。 入学した年の秋には、文科系大学生らが徴兵延期制度の撤廃によって、戦線に投入されていった。 理工系の在学期間が2年半に短縮された2年次の夏は、軍需工場への勤労奉仕に出動し、9月に入って学業が停止された。学友10名とともに大久保の陸軍技術研究所に派遣され、さらに私を含む3名は特攻兵器となる青酸ガスの合成施設建設のため、富山県高岡市伏木に出向し、北陸で一冬を過ごすことになった。 翌年3月末に動員が解除されて母校に戻ったが、米軍上陸に備えた軍事訓練の毎日であった。ついに8月6日と9日に原爆投下を受け、8月15日の終戦の詔勅、そして、9月2日の降伏の日をむかえた。戦争が続けば、9月末に卒業し、陸軍に入隊、満州に送られる筈であった。 このような“狂瀾怒濤”の時代の中で、短い学業の日々であったが、教えを受けた先生方の印象は、今も記憶に鮮やかである。

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