理窓2014年1月号
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14・1 理窓33あの東日本大震災の時などは一番先に安否を心配して電話をくれたのも三本の奥様だった。 山岳部員はあちこちの山にアタックしたが私は前述のとおり名ばかりだった。唯一つ群馬県の湯ノ小屋温泉(山岳部の常宿)での山スキーの合宿訓練に参加できた喜びがある。 講師が黒田正夫先生で実技は奥様の初子さんだった。次々に滑り私が押し出される。滑るより転がり下り、やっとのことで元に登ったら、初子さんが「あなたカニさんだね」と、私に山男の名を付けられた。スキーを横にしただけで上がったからだ。 私は物理学校の他の学科の内容については全く知らない。大学のように研究室もない専門学校で、1年生時代などは映画館に入ったように隣の者とも毎日違う隣人関係のない学校生活を送った私にとって、山岳部の存在は正に絆を生む尊い存在であった。◇運動会の開催◇ 運動とは全く縁のない学校が東京物理学校であったが、私たち若者はごく僅かな余暇を利用して、四ッ谷のグランドで野球、隅田川の言問橋コートでテニス、夜の伊勢丹でスケートをと、ごく僅かな仲間と楽しんだが学校全体のものはなかった。他の学校にはそれぞれ祭りのようなものがあった。 私は応用物理学の学級委員をしていた昭和15年の秋、昼間及び夜間の全校運動会の開催を提案し学校の承認を得た上、陸軍病院(現国立病院)隣の戸山が原で陸軍病院入院中の傷痍軍人を招待して盛大に実施することができた。恐らく学校創立以来の運動会であったと思っている。 私たちが昭和16年3月に卒業した日は神楽坂のビヤホ一ルが無料で私たちを祝福されたのも忘れられない地元との思い出である。 その秋の12月8日、大東亜戦争が始まり、後輩は繰上げ卒業し、多くの者が私たちより先に軍隊に入るという今の世の人には想像できない先輩後輩の逆転がおこった。 一昨年秋、奥多摩の帰り道、東京理科大学に一人立ち寄ったが、浦島太郎の里帰りに劣らない自分だった。その竜宮での思い出を東京理科大学のますますの発展を祈りながらとじる。(昭和16年3月応物卒)鈴木勝かつ平へい・保やす徳のり医事文庫テーマ 発育発達と老化のしくみ医学を「不易流行」の見方考え方で進めます。生命活動や疾患を体全体のシナジェティクス(協同作用)の視座から捉えるSGです。代 表 鈴木聡一郎 (腫瘍病理、医師)世話人 海野晴男  (日本史、民俗学)    岡本 博  (画家、思考空間論)    田口敏紀  (機械シナジェティクス)    山下康子  (社会福祉士、介護福祉士)    鈴木春美  (鍼師、師、柔道整復師)    田口晶子  (電気電子工学) 鈴木勝平(嘉永6年、1853年、1月15日生)は、西洋医学を学び医師資格を取得し先駆的に浜名郡に西洋医学を導入し、医学の不易の原理を卑弥呼の治病の見方考え方に依拠して「社会存続の根拠」と捉え、様々な手技を開発し「腹くぐり」と称され世に知られ、長男医師保徳は、医学博士「テーマ 綿馬えきす毒物の聴器ニ及ボス影響」を取得し医学の基礎研究に携わりました。そして、今、医師 鈴木聡一郎は、基礎医学研究として「腫瘍病理」を進めています。副代表鈴木隆一郎研究方略のメタ理論担当大学設置審議会大学院教員審査[数理の認知]合格47理応数 49理学専攻科数学専攻〒435-0032 静岡県浜松市南区古川町315TEL053-425-7226 FAX053-425-7116

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