理窓2014年1月号
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32 雪氷研究の権威の黒田正夫先生には金属材料学を学んだ。先生の授業は午前8時から2時間だったが、その日は午後9時までと他の授業が続いた物理学校の他の学科にない日で忘れられない。 応用物理には機械設計という課目があり、このためにかなり多くの時間を費やした。工業学校を卒業した者は経験ずみだが初体験の私は用器画の関係用具を買い求め、一からの出発で3年の卒業時の課題は4気筒の自動車のエンジンの設計図書きでで苦労した。しかし、お陰で後年各種の設計図がよめる基礎となった。 とにかく応用物理科は他の学科より授業時聞が遙かに多く、それだけ学校生活に親しみがあった。 昭和15年10月、私は文部省が主催した興亜学生勤労報国隊北支那派遣隊に参加し1か月の予定が68日後の帰国になった上、体調を崩し3年前期の試験は私個人のみ特別延期が許可された。同時に就職もただ一人決まらなかった人間だった。 就職担当をされていた佐々木六郎先生が「どこを希望するか」と問うので「満州飛行機を希望します」と、答えたところ「満州に重工業が発達したら、もしもの時どうなる」「飛行機なら中島があるがどうだ」「それでは中島をお願いします」 この佐々木先生の先見の明が私が今日まで生かされた一因で片時も忘れない大恩の先生である。 東大や理研の先生のほかに母校を終えた先輩にも随分お世話になった。田中伴吉先生を筆頭に平川仲五郎、研野作一、三田巌、多田元一という諸先輩先生の中にあって、特に学生指導という学生から嫌がられる大役を負けずに奮闘をされ、母校を愛し続けた岩水昶先生の姿が忘れられない。 私が理窓会栃木県支部長をしていたおり神楽坂での会議が終わったあとお宅に泊まり歓談したことも懐かしい思い出だ。◇山岳部と私◇ 東京物理学校に山岳部以外の部活動を私は知らない。私はその名ばかりの部員で、その歴史を知らないが先輩たちから続いた唯一つの部だ。 その指導顧問の先生は前述の理研の黒田正夫先生である。奥さんの日本女子登山家の草分けで料理研究の大家であった初子先生にも随分とお世話になった山岳部だった。 部長は同じクラスの山形県出身の大沼匡之君で、黒田先生の特別な教えを受け雪氷研究の後継者として上越に住み、晩年になり蜂の研究も続け、東京理科大学の『坊っちゃん賞』を受賞している。 また、彼を支えた山男に江戸っ子の三本義夫君がいる。卒業後京都の島津に就職し、戦争時東京都西多摩の福生にあった陸軍航空整備学校で私の隣の電気装備関係中隊に入ってきて会うことができた。「どうだ」と彼に聞いたら「山よりはずっと楽だ」という頼もしい返事であった。彼は終戦まで、私の故郷の那須山麓の航空隊に所属していた。彼の亡き後になった今でも家族と交信を続け、雪氷研究の権威の黒田正夫先生には金属材料学を学んだ。先生の授業は午前8時から2時間だったが、その日は午後9時までと他の授業が続いた増渕五郎昭和16年3月応物卒東京物理学校東京物理学校のの思思いい出出②②

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