800年以上続くケンブリッジ流教育にみる 大学のあり方

略歴
東京理科大学工学部、工学研究科修士課程修了後、スイス・チューリヒ大学情報工学科にて博士課程修了(2006年、理学博士)。ドイツ・イエナ大学スポーツ科学学科での研究員、米国マサチューセッツ工科大学電子情報工学科でのポスドクを経て、2009年よりスイス・チューリヒ工科大学機械工学科にて助教の職に着任。その後2014年から英国ケンブリッジ大学に移籍し現在に至る。
専門はバイオインスパイアード・ロボティクスと呼ばれる生物学とロボット工学の学際分野。

ケンブリッジ流教育

ダイニングホールでの夕食会の様子。
学生は手前、教員は写真奥の一段高いハイテーブルに着席する。

大学教員のほとんどは研究で業績を上げることで職を与えられる。大学教員になると仕事の半分は学生教育であるにも関わらず、そこまでのキャリアで教育についての専門的知識や技能を得る機会はほとんどない。学生たちはあまり気づいていないかもしれないが、大学教員のほとんどは教育のアマチュアというわけである。筆者は日本、スイス、アメリカ、ドイツ等の教育現場に長年携わってきたがこの悩みは尽きることがなかった。そんな思いの中、7年ほど前にケンブリッジ大学で教員になる幸運を得た。ここに来て驚かされたのは、とにかく摩訶不思議な規則が多いということである。入学して最初に覚えるのがドレスコードで、入学式当日の夜に蝶ネクタイとガウンを着て夕食会に参加させられる。ドラの合図で一斉に起立をし、教員の入場を見届けてラテン語による祈りとともに会が始まる。教員は一段高いいわゆるハイテーブルに座り学生と交わらない。翌日からは次から次へと現れる奇妙な単語群に翻弄される。普通の学校で使われる「宿題」「試験」「学期」等の単語にケンブリッジ特有の表現が割り当てられている。ケンブリッジ特有の「気取り」 なのか、それとも他の学校で言うところの「宿題」とは意味が違うということなのか、本当のところはよくわからない。が、確かにケンブリッジでの「宿題」は宿題以上の意味がある。

大学での教育は極めてきめ細かく、学部1年生から通常の集団授業に加え、全ての学生に無数の個人指導が毎週施される。例えば工学部での力学等の基幹科目では、まず学部生全員が学部に赴きそこで集団講義を受ける。学部での講義は一人の教員により行われるが、それが終わるとそれぞれが所属する31校のカレッジに戻り、そこで講義内容を個人指導される。通常は教員一人と学生二人が隔週1時間ほど講義内容や宿題について議論する。
つまりひとつの科目を担当教員とそれぞれのカレッジに在籍する30名以上の指導教員が共同で教えるということになる。もちろん講義内容や宿題はあらかじめ全ての教員間で共有され、その内容はほとんど変わることがない。もし変えようと思えば1年以上前から計画し、全ての教員から事前に了解を得なければならない。授業内容が変えられないということは、逆にその質を高くしておく必要がある。長期間変わることのない原理原則が選別され、それが体系化されて一つの科目ができている。実際の個人指導では学生の個性や理解度に応じてディスカッションの内容がカスタマイズされるため、講義内容は様々な方向への発展の可能性を残していなければならない。そのためできる学生は飛躍的に成長し、その一方で落ちこぼれる学生も極めて少ない。もちろん、このような良質の教育方法は若手教員(中には大学院生の場合もある)へのトレーニングという側面もある。筆者がこの教育システムの全体像を初めて理解したときにはひどく驚いた。突き詰めると大学教育とは原理原則をみんなで吟味し理解を深めるプロセスだということをこのシステムに組み込まれることによって知ることができた。
ケンブリッジ流教育の凄さは800年かけてこのような高コストなシステムを作り上げて維持してきたことである。薄給(?)にも関わらず良質な教育を施す教員たちの敬服すべき良識や、経済的に成功した卒業生たちから寄付を募るメカニズム、さらに数世紀に渡り蓄積された大学の物的、形式的資産。これらが全て機能してようやくこのような知の伝達メカニズムが可能になる。昨今、インターネットの普及によりあらゆる情報や価値観が氾濫している。専門家でさえも困惑してしまうほど多様な考え方があふれる世界において、多数の優秀な学生と教員が有機的に繋がることで有用な知識体系を作り上げていくプロセスこそが大学に求められている役割なのかもしれない。

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