鋳物ホーロー鍋「バーミキュラ」で 小さな町工場から世界へ

具材を鍋に入れて火にかけるだけ。水を一滴も使わない無水調理ができる鋳物ホーロー鍋「バーミキュラ」は、素材本来の味を引き出す魔法の鍋として、2010年に発売されるやいなや瞬く間に広まり、一時は15ヶ月待ちに。
そんな大ヒット製品を生み出したのは、東京理科大学出身で、愛知ドビー株式会社の代表取締役社長を務める土方邦裕氏。名古屋市中川区の町工場の長男として生まれ、弟で副社長を務める智晴氏と二人三脚で「バーミキュラ」を開発するまでのストーリーを伺いました。

父の背中を見て、職人たちに囲まれて過ごした幼少期
工場の敷地内に家があったので、毎日遅くまで仕事をして、油まみれになって帰ってくる父を幼い頃から見ていました。1年の中で大きな楽しみだったのは、大みそかに父と弟と餅をついて、その餅を工場にある大切な機械の上に飾っていく毎年恒例の催しです。よく知らない機械の上に父がぽんっと餅を置くと、この機械はなぜ大切なのか?と疑問が湧き、父の説明を聞く。なので、幼心にもどの機械が大切なのかは、わかっていました。この行事は、今も職人たちと毎年行っています。

友人たちと勉強漬けの大学生活
大学で得たものの中で最も大きいのは、新しい友人ができたこと。私は中高一貫の学校に通っていたので、入学当初は友達の作り方を忘れてしまい、ドキドキしたことを覚えています。大学時代は江戸川台駅に住んでいて、近くに住む同級生6人ほどと仲良くなりました。理科大というと課題が多く、授業は7、8限目まであるのが当たり前。勉学に追われて過ごした5年間(笑)、という印象です。毎日、駅から近い私の部屋に集まって課題をこなすのが日課。課題を終えると「おかあさんの詩」というお弁当屋さんに夕ご飯を買いに行き、22時頃までゲームをして、また朝から学校へ…。今思い返すと、苦しくもあり楽しい思い出です。
友人たちとは、卒業してから23年ほど付き合いがなかったのですが、私がメディアに取り上げていただいた様子を偶然友人のひとりが見つけ、連絡をもらいました。その彼は、飲食チェーンの代表として活躍していて、後々別の友人も、調理業界に進んでいることがわかり、こうして年月が経ってから、再び共通項が生まれている。奇遇だなと感じています。

借金4億を抱える家業を復活させるべく、卒業後は豊田通商へ
豊田通商に入ろうと思ったのには大きな理由がありました。実は、愛知ドビーは、私が大学生の頃から経営が傾き始めていた。売上が2億円に対して借金は4億円を抱えていました。就職の際は、両親から「愛知ドビーは潰れるかもしれないから、愛知ドビーのことは考えずに就職先を探してくれ」とまで言われましたが、せっかくなら勉強になるような会社を、と考えました。愛知ドビーを復活させるためには、ものづくりも学びながら、その先にいる最終ユーザーの気持ちもわからなければなりません。トヨタグループの商社ならその間のポジションに立てると思い、豊田通商に入りました。

26歳で家業を継ぎ、鋳造の職人に
豊田通商に入ってからは為替のディーラーとして仕事に邁進。そのうち、外資系企業への転職の話が出た際に、父から「どうせ転職するなら、愛知ドビーはどうか?」という思わぬ言葉をもらい、チャンスがあるなら、と26歳で家業を継ぎました。
もともと、愛知ドビーは、鉄を溶かして形をつくる〈鋳造〉と、鉄の鋳物を精密に削る〈精密加工〉を得意とする鋳造メーカー。祖父の代では、社名の通りドビー機という繊維機械を扱っていましたが、私が継いだときには、自社製品の製造は縮小し、部品の下請け会社になっていました。入社後は、まずは優良な下請け会社として会社を立て直そうと、私自身も現場に入り、鋳造の職人として一から技術を学ぶ日々。同時に、地道な営業活動を行い、他社が嫌がるような難しい技術を要する仕事を集め、売上を伸ばすために奔走しました。

弟(智晴)も入社して売上は上昇、しかし職人たちの顔は暗いまま
5年後、当時、自動車メーカーに勤めていた弟に声を掛けました。弟も、家業のことは気にかけていたようで、一緒に愛知ドビーを再建したいと入社を決断してくれました。弟は精密加工の現場に入り、鋳造部門と精密加工部門の二本柱で、私と共に会社の立て直しに奮闘。この頃には、はじめは冷めた目をしていた職人たちも、だんだんと協力してくれるように。弟と職人たちと一致団結し、難しい仕事をこなしていくうちに少しずつ業績も上がり、売上は2億円から5億円まで回復。しかし、自分たちが幼い頃に見ていた、職人たちの本来の輝きは戻らなかったのです。そのために必要だったのは、かつての繊維機械メーカーの頃にはあった、自分たちの技術が直接お客さまに届いている実感を得ることでした。ならば、自分たちの技術を駆使して、世界にひとつしかない製品を世に送り出すしかない、と新製品の開発に足を踏み入れたのです。

職人の誇りを取り戻すため、新製品の開発を決意
自分たちの技術を生かすものづくりを暗中模索する中、ある日、海外製の鋳物ホーロー鍋が世界的に人気だと知ります。その鍋は、鋳物の優れた熱伝導と、ホーロー加工の保温性や遠赤外線効果により、素材の旨みが引き出されて美味しくなるのが特徴。一方で、密閉性が高く、食材の栄養を逃さずに無水調理ができるステンレスとアルミを加工した鍋も根強い人気がありました。自分たちの持つ〈鋳造〉と〈精密加工〉の技術に加え、〈鋳物へのホーロー加工〉の技術と、〈無水調理ができるまで密閉性を高める〉ことができれば、まだ世界に存在しない、オンリーワンの鋳物ホーロー鍋が生み出せると確信しました。ですが、いざ開発をスタートすると、その道は困難を極め、なぜ今までどこも挑戦しなかったのか合点がいったほど。開発にかけた年月は約3年。朝から晩まで試作を重ね、つくった鍋の数は1万個を越えました。開発途中にはリーマンショックがあり、再び窮地に立たされる場面もありましたが、下請けの仕事を取り続け、工場の存続にも注力しました。

無水カレーの美味しさに感動、バーミキュラの誕生
完成の目途が立たない日々に光が差したのは、ひょんな出来事からでした。新しく請けた部品製造の仕事で「バーミキュラ鋳鉄」という材質を使ったことがきっかけです。精密加工の時に出る削りクズから、「これかもしれない」と、バーミキュラ鋳鉄をベースにして鍋を焼き付けたところ、密閉性の高い鍋をつくることができた。弟とともに工場の片隅で、興奮冷めやらぬ中、その鍋を使って無水カレーを作りました。食材を切り、1時間弱火にかけて蓋を開けると、鍋には野菜の水分だけでできた黄金色のスープがなみなみと入っていました。野菜の甘みが引き出され、えぐみもなく、味も本当に美味しかった。私はあの瞬間にニンジン嫌いを克服しました。お客さまの中にも、バーミキュラで調理した野菜を食べて、苦手を克服できたという方がたくさんいらっしゃいます。

「最高のバーミキュラ体験」ができる複合施設

VERMICULAR VILLAGE
2019年12月、創業の地、名古屋市中川区にオープン。「最高のバーミキュラ体験」をテーマに、レストランとベーカリーがある「DINE AREA」と、フラッグシップショップを中心とした「STUDIO AREA」からなるブランドの発信拠点です。
VERMICULAR HOUSE
2021年12月、東京・代官山にオープン。バーミキュラ ビレッジのテーマである「最高のバーミキュラ体験」を引き継ぎ、“何度でも帰ってきたくなる「最高のバーミキュラ体験」ができる場所”をコンセプトにした体験型複合施設です。

世界中に手料理の素晴らしさを広めていきたい
それからは、量産へ向けて半年間ほど調整を行いました。発売を開始すると口コミが広がり、一時は15ヶ月待ちになるほど大きな反響をいただきました。バーミキュラの鍋を販売したのは2010年。その後、バーミキュラの鍋と最適な火加減調整ができる専用のポットヒーターをセットにした「ライスポット」、水なじみのいい新開発のホーローコーティングによって、食材から出る余分な水分を瞬間蒸発する「バーミキュラ フライパン」を開発。今年の夏には「バーミキュラ フライパン」のプレミアムモデル「オーブンセーフスキレット」を発売し、国内外の多くのオーナーさまにご愛用いただいています。現在、海外での販売が全体の約30%を占めています。引き続き、バーミキュラのよさを海外の人たちにも知ってもらうため、海外の販路をより拡大していきたいと考えています。
さらに、バーミキュラらしい新製品を開発し、バーミキュラファンの皆さんに喜んでもらいたいですね。

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