東京理科大学のルーツを求めて……【東京物理学校 前夜編 ② 】

東京理科大学 維持会会長 森野義男(理・化1978)
初回は、時代背景を含め、文部省設置と東京大学の開校までを駆け足で説明してきた。今回はもう少し掘り下げ、創設者たちにも触れる。
仏語(フランス語)物理学科ができたころ

東京物理学校は日本で初めての理学士19名と在籍者2名によって創設された学校である。創設に参加した志士たちは、いずれも東京大学理学部仏語物理学科を卒業した20歳代の若者であり、仏語で理学を学んだ若き学徒であった。お雇い外国人であるフランス人から仏語を学ぶために集められ、志士たちはまず仏語を習得することから始まった。

政権は明治新政府へと変わり、鎖国に終止符を打ち外国に門戸が開かれていった。幕末から明治維新にかけて日本はフランスとの外交が主流であり、近代化を迫られた軍隊もフランス式が先行していた。東京大学に仏語物理学科が誕生したのも、このような背景があったに他ならない。

創設者たちの出会い

明治新政府は、語学をはじめとする洋学の知識を持った人材の育成、登用が急務であったため、開成学校にお雇い外国人を教師に迎えて授業を開始した。左図は当時のお雇い外国人教師の例であるが、外国人教師に支払われる報酬がとても高いものであった。そのため新政府は日本人の教師育成に力を注いだものと推測される。1873年4月、開成学校は大学南校と改称されるが、南校に入学した貢進生の中には学力の不足等で退学を余儀なくされる者が相当数いたため、一時閉鎖した。優秀で志しがある学生に限り引き続き南校での修学を許可することにし、南校の質的向上を目指した。この貢進生の中に創設者となる小林有也、桜井房記、鮫島晋、千本福隆、高野瀬宗則、中村恭平、信谷定爾、谷田部梅吉の8名がいた。1872年8月3日、文部省は学制を発布した。これに伴い、南校は第一大学区第一番中学と改称された。上記の8名は引き続き進学をした。新たに入学してきた名村程三(のち玉名に改姓)、三守守、保田棟太と机を共にした。後に赤木周行、加瀬代助、桐山篤三郎、豊田周衛、中村精男、難波正、三輪桓一郎、和田雄治が学ぶことになった。

同年8月には開成学校から外国語による普通教育課程が切り離され、新設の東京外国語学校に移された。東京外国語学校には、後の東京物理学校初代校長となる寺尾壽と澤野忠基、玉名程三が入学した。

1874年、開成学校は東京開成学校と改称した。玉名は引き続き、東京外国語学校で学んだが、他は全員東京開成学校に進学した。その後、東京開成学校は廃止した仏語諸芸学科に代わり同年8月には仏語物理学科が新設した。創設者たちは新設した学科に進学した。1876年1月、旧会津藩士でのちに東京物理学校設立に深くかかわった山川健次郎が東京開成学校の教授補となり教壇に立った。山川はアメリカ人教授のピーテェル・ベダルの助手を務め、主に実験を担当した。また、授業も聴学(音に関する学問)、熱学、光学、電気学、電磁気学など週3時間ほど担当した。ここで東京物理学校の創設者たちと運命的な出会いを果たしたのである。

1877年、東京開成学校は東京医学校と合併して東京大学と改称し、法学部、文学部、理学部、医学部の4学部を置いて発足した。派遣していた留学生の相次ぐ帰国により、教授となるものが増え「日本語・日本大学院」へ転換するきっかけとなった。東京物理学校の創設者全員が東京大学理学部・仏語物理学科へ進学した。1879年7月、山川健次郎は日本人として初めて物理学講座の教授に就任した。

東京物理学校の創設者たちは夢を語りながら、順次東京大学理学部・仏語物理学科を卒業していった。

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