「バイオロボティクス」への道

ライフワークに出会うまで

バイオロボティクスとは、生物に学び、生物を規範としてロボットをデザインし機能化するための学問であり、私がこれまで25年近く専門としてきた研究分野である。私がバイオロボティクスを始め、今日に至るまので道のりを紹介する。

私は、幼い頃は野山を駆け回り、昆虫採集をよくやった。ワインレッドに光輝くノコギリクワガタを森で偶然見つけて、胸が躍ったことを今でも懐かしく思い出す。そんな私が小学生のときに、父親が光学顕微鏡を買ってくれた。採集した昆虫を観察することが、生物への興味を増幅させた。生まれて初めて見た蚊の顔は想像以上にグロテスクで、今でも脳裏に焼き付いている。生物のデザインや多様性への興味はこのときにすでに芽生えていたように思える。

一方で、私はものづくりが好きな少年でもあった。といっても、技能は図画工作のレベルであったため、金属部品や電子部品を組み合わせてシステムにする技術に憧れをいだき、機械工学の道に進んだ。理科大の工学部機械工学科では、機械に関する様々な基礎を学んだ。中でも制御工学には強い関心があった。もともと数学は好きであったが、数学を道具として制御対象を数式で記述し、その特性を自分の思うようにデザインする点に強い興味を覚えた。そんな私は、卒業研究の配属の直前に、後に恩師となる福田敏男先生(当時、助教授)の研究室をアポ無しで訪問した。このとき、ラボで眼にした柔軟構造物の振動制御の実験をみて、すっかり虜になってしまった。福田先生は私を研究室に受け入れてくださり、卒業研究、修士論文は福田研で行った。福田先生からは、「乾いたスポンジが水を吸い取るように、たくさん吸収しなさい」といった意味の言葉をかけていただき、好奇心旺盛な私の心に響いた。その後、恩師の福田先生が平成元年に名古屋大学に転職され、私は福田研の助手として、研究を職業として選んだ。といっても実際は、博士の学位を取ることが目的で、大学の職業がどんなものかは知らずに着任した。このため、世間知らずで、始めは多くの方々にご迷惑をおかけしたが、研究への情熱は人一倍強かったように思う。

バイオニックヒューマノイド

そんな中、当時、名古屋大学医学部の根来真先生から、血管内移動のロボットの共同研究テーマが福田先生のもとに舞い込んだ。80年代の後半は、微小機械システム(マイクロマシン)の幕開けで、これを低侵襲医療に応用する画期的なテーマであった。医工連携がまだ活発化していない時期ではあったが、福田先生に師事して、能動カテーテル、遠隔操作システム、血管シミュレータと、次から次へと研究開発を進めていった。同時に、顕微鏡下で駆動するマイクロロボットの研究も進めた。

Bionic-EyETM(上)、Bionic-Brain(下)

2005年に東北大学に教授として着任し、新しいラボを立ち上げ、内視鏡先端で操作するマイクロロボットシステムの研究を進めた。体内を移動するロボットシステムを実現する上で、生物の構造や機能が大変参考になった。幼少の時期に生物とふれあい、生物の構造や機能に抱いていた興味が、機械工学をベースとする微小機械システムの学問的興味と融合した。これ以降は、おぼろげながら見えていたライフワークとして研究のゴールがはっきりと見えた気がする。2010年に名古屋大学に教授として戻り、2011年に東京大学の客員教授として、眼科手術用ロボットシステムの研究を始めた。これがきっかけとなり、バイオニックヒューマノイド(ヒトや実験動物の代わりとなるセンサー付精巧人体モデル)の研究を2016年からスタートした。Bionic-EyETMやBionic-Brainはここから生まれた患者シミュレータであり、現在、事業化の準備を進めている。バイオロボティクスを今後どこまで発展できるか考えると、ワクワクしてくる。

後輩に一言

人生は回り道が楽しいし、必要であるとつくづく思う。回り道をすることで、効率や利益だけでは語り尽くせない、感動、驚き、発見、後から噛み締めてわかる奥ゆかしさに出会える、回り道をしていることに気づかないくらい、なにかに没頭できることが「若さ」と思う。自分が楽しいと思えることに没頭できることは幸せであり、感謝に堪えない。年を重ねていくと、くねくね曲道にいても、遠い彼方に自分のゴールがはっきり見えるときがくる。時には思いっきり突き進んでみる。また、わかった上で回り道もしてみる。私の好きな言葉に「急がず、弛まず」という言葉がある。心にゆとりをもって、エンジョイしましょう。

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